木曜手帖

サトウハチローについて

1. 処女詩集『爪色の雨』出版まで

1903年5月23日、作家・佐藤紅緑とはるの長男として、東京・牛込に生まれる。
両親の不和が思春期のハチロー少年に影響を及ぼし、早稲田中学1年で落第。転校を繰り返し、警察沙汰を起こして、小笠原島の感化院へ送られる。

しかし、佐藤紅緑の弟子で詩人の福士幸次郎が小笠原島に付き添っていき、二人だけの暮らしを始める。ここで福士幸次郎は中学程度の勉強の面倒を見ながら、詩集や、詩について書かれた本を読ませたりする。

ハチローは、島の子供たちとも仲良くなり、わけても混血の少女ビテヤに淡い恋心を抱く。小笠原島の美しい風景と恋心。それがハチローに詩への関心をそそり、詩らしいものを書くようになる。

半年くらいで許されて東京に戻ったハチローは、立教中学に転入、野球部に籍を置く。
一方、福士幸次郎の紹介で、詩人・西条八十に入門。雨で野球が出来ないとき、詩を書いて、師の西条八十に見てもらいに行った。

1920年には、初めて童謡「トランプ」で原稿料をもらったとの記述が残っているが、どこに掲載されたのかは不明。

1921年には、浅草・根岸興業部に野球のほうで雇われる。この頃から、ぼつぼつ子ども向けの雑誌や新聞に、詩が掲載されるようになる。

1926年、処女詩集『爪色の雨』出版。
幅9センチ、縦12センチのこの詩集は、手の平に載るほどのかわいらしいサイズ。画家でハチローの友人、吉邨二郎が装幀挿画をしている。
「爪色の雨が降ります」なるフレーズをもつ表題にもなった詩は、色があるようでない雨の色を、爪の色と表現しているもので、出版記念会に出席した北原白秋が絶賛したという。

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2. レコードの時代

1930年ポリドールの専属になるが、野球選手としての存在価値が大きかった。しかし、父・佐藤紅緑の小説『麗人』が松竹で映画化されるに当たって、ハチローが主題歌「麗人の唄」(堀内敬三作曲)を書き、コロムビアから発売されるや、これが大ヒット。

ポリドールでは、ハチローはうちの専属なのにと不満だったという。それではポリドールでも書かせればいいではないかということになって、以来多くの作品がポリドールから発売されるようになった。

1934年には「うれしいひなまつり」(河村光陽作曲)が発売される。この歌は、その後、作曲者のキングレコード移籍により、ハチローは山野三郎というペンネームでこれに対応した。
長く山野三郎で知られてきたが、晩年、ハチローがレコード会社をフリーになったこともあって、徐々にサトウハチローに戻していった。

1935年には日活映画『のぞかれた花嫁』の主題歌「二人は若い」(古賀政男作曲)をテイチクから玉川映二というペンネームで書いているし、1937年には「もしも月給が上がったら」(北村輝作曲)を山野三郎で書いている。レコード会社にお伺いを立てると、名前を変えればいいだろうと許可されたのだった。

1938年テイチクをはなれて、日本コロムビアと専属契約。
1941年には「めんこい仔馬」(仁木他喜雄作曲)がコロムビアから発売されている。

第二次世界大戦がはげしさを増す中でも、妻子を房総に疎開させたものの、自らは東京にとどまって、仕事を続けていた。

1944年には東宝映画『勝利の日まで』の主題歌「勝利の日まで」(古賀政男作曲)を書き、コロムビアからレコード発売されている。

『爪色の雨』の出版以来、詩やユーモア小説の注文も多くなり、少年少女小説を集めた『ユーモア艦隊』(株・大日本雄弁会講談社)の刊行のほか、数多くユーモア小説も出版されている。

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3. ハチローの戦後

第二次世界大戦後、いち早く松竹映画『そよ風』の主題歌として「リンゴの唄」(万城目正作曲)が使用された。これは戦争末期に、もっと明るい行進のための歌がほしいと作ったのだったが、軍隊からは受け入れられず、コロムビアでオクラになっていた。それが日の目を見て、爆発的に流行。
1946年10月には、コロムビアからレコードとして発売された。

一方、1946年2月には「東京タイムズ」が創刊され、ハチローは“見たり聞いたりためしたり”というコラムを毎日書き始める。これは1957年まで休みなく書き続けられ(終わり近くで少し休んだが)、11年間、3481回続いた。ここには、日記を書かなかったハチローの、この頃を知る手がかりとなるものが多く見られ、貴重な資料となっている。

この年6月からは、少年少女向けの雑誌『赤とんぼ』(実業之日本社)が創刊される。ここにはハチローが子ども向けの詩を書き、高木東六が作曲して、毎月掲載された。

12月からはNHKラジオによるクイズ番組「話の泉」が始まり、レギュラーとして出演する。
1949年4月には、辰野隆、徳川夢声などとともに皇居を訪ね、民間人として初めて天皇陛下に謁見。「文藝春秋」の6月号には“天皇陛下大いに笑う”という見出しで、その時の様子が伝えられた。

同じく4月、長崎医大の永井隆博士の著書『この子を残して』からヒントを得て、ハチローが作詩した「長崎の鐘」(古関祐而作曲)がコロムビアから臨時発売され、大ヒットとなった。広島の原爆で弟を亡くしていたハチローにとって、長崎で被爆した永井隆博士には共感するところが大きかったのだろう。冒頭の「こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ」は胸に迫ってくるものがある。

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4. 童謡と抒情詩に向かって

童謡を書きたいと希望して、15歳の時、詩人・西条八十に入門したハチローだったが、童謡で生活は出来ない。父・紅緑の書いた小説の映画化で主題歌を書き、そのヒットによって、歌謡曲の世界を歩いてきたハチローは、敗戦という大きな社会の変化の中で、本来希望していた道への手がかりを得た。

それは藤田圭雄が編集長をしていた少年少女向けの雑誌『赤とんぼ』に毎月童謡を書くことへの誘いであった。ハチローは「これからは童謡と抒情詩だけを書いていく」と宣言。

ひたすら目差す方向へ歩き始める。時はまさに、戦後の未来を子どもたちに賭けるという風潮にあって、いくつもの子ども向けの雑誌が生まれ、放送においても子ども向けの番組が作られていた。

NHKラジオで“うたのおばさん”が始まったのは1949年8月。ハチローの「かわいいかくれんぼ」(中田喜直作曲)は1951年の1月から放送。以来、サトウと中田のコンビによる名曲が数多く生まれていく。

1951年1月からは、NHKで少年少女向けの連続放送劇「ジロリンタン物語」が放送されるようになる。これは書き下ろしで、主題歌ほか、沢山の挿入歌を作っている。

1953年には、サトウハチロー童謡集『叱られ坊主』(全音楽譜出版)を刊行。これは、初山滋の装幀挿画による童謡詩集と別冊の曲集を一つの箱に入れた豪華なものであった。
この『叱られ坊主』によって、翌1954年、第4回芸能選奨文部大臣賞を受賞した。

またこの年にはアサヒグラフで「新童謡歳時記」が始まり、続けて童謡を発表していく。

1954年、NHKの“秋の祭典”のために「ちいさい秋みつけた」(中田喜直作曲)を書く。
1954年には、『叱られ坊主』に続くサトウハチロー童謡集『木のぼり小僧』(全音楽譜出版)を刊行した。

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5. 木曜手帖の創刊と数々の受章

「東京タイムズ」の【見たり聞いたりためしたり】は1957年の4月で終わっているが、この後半において、ハチローはしばしば童謡について書いている。自分がある程度、童謡の地盤を作ったところで、童謡の書き手を育て、童謡を更に盛んにしようと考えていたことが伺われる。

この頃、ハチローは木曜日ごとに自宅の山小屋(書庫)に、藤田圭雄、菊田一夫ほか、気心の知れた人たちを招いて、日本の文化について語り合っていた。
そこへ童謡を書きたいという生徒が一人、二人と集まってきて、詩の勉強会としての“木曜会”がスタートした。はじめはガリ版刷りの『木曜手帖』を出していたが、1957年の5月、活版刷りの『木曜手帖』を創刊した。

ハチローは、後進を育てると同時に、自らの自由な作品発表の場として、『木曜手帖』に多くの作品を掲載。それらの詩によって何冊ものハチロー詩集を編んでいる。

1958年9月に始まったテレビ番組“おかあさん”のタイトルバックに30秒の詩を書き始めたハチローは、ひたすら母の詩を書き続け、1961年には第1詩集『おかあさん』が出版され、1962年には第2詩集『おかあさん』、1963年には第3詩集『おかあさん』が刊行された。
これら3冊を一つの箱に収めて発売。詩集“おかあさん”はベストセラーになった。

1963年3月
NHK放送文化賞受賞
1966年11月
紫綬褒章受章
1973年11月
勲3等瑞宝章受章

1973年11月13日 永眠 享年70歳 東京・雑司ヶ谷の墓地に葬られた。
亡くなったとき、日本童謡協会会長、日本作詩家協会会長、日本著作権協会会長を務めていた。

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